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味噌

原料比例:

豆麥1: 1 鹽度13%

醵造畤間:

360

味噌(みそ)は、大豆等の穀物に、を加えて発酵させて作る発酵食品で、日本の伝統的な食品の一つである。日本料理(和食)の代表的な材料として日本国外にも知られている[1]ペースト状であることが多く、液体調味料である醤油などに比べると粘度がある。

概要[編集]

食品学人類学的には、日本の味噌は醤油と同じく、(ひしお/ジャン)のうち穀醤(こくしょう)に分類される。一般的な味噌は日本独自のものであるが、東アジア東南アジアの各地に存在する大豆やその他の豆・穀物を原料としたペースト状の発酵調味料である穀醤も、類似性から味噌に含める場合もある。例えば、中国の豆板醤韓国コチュジャンを、日本ではしばしば唐辛子味噌などと呼ぶ。

主な原料は大豆であるが、穀物や麹の違いで種類が豊富である。穀物に黄麹菌などの麹菌を繁殖させた麹や塩を混ぜ合わせ、発酵させることによって大豆のタンパク質を消化しやすく分解し、旨みの元であるアミノ酸を多量に遊離する。穀物由来の麹が増えるとデンプンに変わって甘味が増し、大豆が増えるとアミノ酸による旨味が増す。原料により豆味噌、米味噌、麦味噌など、地域、種類により赤味噌白味噌、合わせ味噌(調合味噌)などと区別する。

古くから日本の食生活における主な蛋白源である。また副食の素材が豊富になった今日では調味料とみなすことがあるが、江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをしていた。現在でも「おかずみそ」・「ねぎみそ」・「ピーナッツみそ(みそピー)」・金山寺味噌・豚味噌(アンダンスー)・魚味噌・朴葉味噌など、多数の味噌加工品が存在しており、日本料理に欠かせないものの一つとなっている。とくに近年ではスローフードや日本食ブームにより、味噌の良さが改めて見直されている。

長年の経験では、味噌は食品として万能であることが江戸時代の本朝食鑑に記載されており、その健康増進効果から味噌汁は「医者殺し」と当時から言われていた[2][3]。20世紀後半からは、健康効果の研究がおこなわれている。

原料[編集]

  • 大豆

  •  -大豆に米麹を加えた味噌、大豆に麦麹を加えた味噌、大豆の麹で発酵させる味噌など地域によって様々な穀物を使った麹が使用される。

  尚、一般的に流通しているのは米味噌である。

成分[編集]

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味噌の栄養価の参考値

味噌には以下のような成分が含まれる[6]

歴史[編集]

味噌蔵の木桶(愛知県岡崎市まるや八丁味噌
現在市販されている味噌はプラスチック製の容器に機械で詰められて売られていることも多い。(写真は江戸甘みそ)

起源[編集]

味噌の起源には二つの説がある[7]

  • 中国伝来説

    • 古代中国のを根源とし、遣唐使により中国を経て伝来したとされる説[8]


    • 語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。

    • 701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、「主醤」という醤を管理する役職の記述もある[7]

  • 日本独自説

    • 日本の味噌の原型は歴史が古く、弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い[9]。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている[7]古墳時代からは麹発酵の技術を加えたものとなった。


    • 現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に「未醤」(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また「末醤」とも書かれ、「大宝令」(大宝元年(701年))の「大膳職」条では「末醤」と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は「謹啓今忽有用処故醤」、裏には「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」と書かれた木簡が発掘されている[10]。この未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、「倭名類聚抄」(934年頃)や「塵袋」(1264-1287年頃)という辞書に書かれている。この当時の味噌は、調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べられた。徒然草にある、北条時頼北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話は、このような時代背景によるものである。大豆を原料とした調味料としては、当時は塩辛納豆が主に使われた。

室町時代[編集]

室町時代になると、各地で味噌が発達した。戦国時代には主にが原料とされたが、兵糧陣中食)として重宝され、加工品の芋がら縄も含め、兵士の貴重な栄養源になっていた[11]。その名残は、朴葉味噌などとしても伝わっている。各地の戦国武将にも味噌作りは大事な経済政策の1つとして見られるようになった。

江戸時代[編集]

各地の風土・気候を反映し、材料比率を変えたり熟成方法などが異なる多様な味噌が製造された。

明治時代[編集]

明治時代の一般的な味噌の醸造期間は1-3年程度であった。明治時代の国語辞典である『言海』は味噌の分類として以下の3種をあげる。その記述では、当時の赤味噌と白味噌は材料の豆や麹が異なったという。

  • 白味噌 - 豆の皮を取り、白麹で作る。色が白く甘い。

  • 赤味噌 - 白大豆で作る。色が赤い。

  • 玉味噌 - 豆を臼で砕かず包丁で刻み、藁に包んで熟成させる。下等品だったという。

蒸すか茹でるかした大豆を潰して団子にし、藁で包んで味噌玉として軒下などに吊るし、枯草菌や納豆菌やカビが生えるなどして熟成したものを塩水と合わせて仕込む玉味噌は、現代でも地方各地に残っている。また、味噌玉を作って味噌を仕込む方法は朝鮮半島のテンジャンにおいても見られる。すでに江戸時代の『本朝食鑑』には「玉味噌というものあり。煮豆を半煮えで庖丁で砕き粗い細かさにして麹は少なく塩は多く揉み合せ、玉にし鞠の大きさにする。これを藁で包み縄で縛り、これを軒下につなげ、年が過ぎて使う。これは下等品である。または煮えた大豆を使い麹、塩を混ぜ米糠を合せて造る。これは最下等品である。長期保存しても腐らないため下々の者は好む」(大意)[注釈 1] とある。

明治時代末期に日本陸軍糧秣廠に勤めていた河村五郎(日出味噌創業者)が、麹の働きを温度管理で調節する味噌速醸法を考案。醸造時間は数ヶ月に短縮することが可能となった。当時、東京で主流となっていた仙台味噌の醸造法とともに全国に普及した[12]

明治時代末まで味噌の原料豆を砕く道具はと杵であり、完全な破砕ができなかったため、出荷された味噌には豆の粒や欠片がそのまま残っており、使用の前にすり鉢で粒を潰し「みそこし」で漉してから使った。やがて味噌製造が機械化すると味噌を出荷前に機械で漉し、家庭でいちいち擂ったり漉したりの手間が省ける「漉し味噌」「擂り味噌」が販売されるようになった。現在のような滑らかなペースト状の味噌が販売されるようになったのはみそ漉し機械の導入以降であるが、味噌をすり鉢でする習慣は戦後も残っていた。漉し味噌は食味で劣るとの議論もあり、現在でも漉していない「粒味噌」が販売されており、鹿児島県奄美料理のように粒味噌のまま使っている地域もある。

大正時代[編集]

1926年(大正15年)に「最新醤油味噌醸造法」栂野明二郎 著 醸造評論社 が発行されている。本書は、国立国会図書館のデジタルライブラリで閲覧可能である。当時の醤油味噌の製造方法がわかる[13]

昭和時代[編集]

戦前の東京では、河村が開発した味噌速醸法を元にした早造り仙台味噌(早仙)が普及。第二次世界大戦中には、食糧統制下で全国味噌組合方式(全味式)へと発展し、配給味噌の基準製法になった[12]。また、温度に着目した醸造法が各地で試された結果、大戦中の1944年(昭和19年)に中田栄造(マルマン (味噌製造)創業者)が醸造中の温度管理の適正化を進めた中田式速醸法を開発。醸造時間を20日とすることも可能となった。この速醸法は、中田の信州味噌の醸造法とともに、戦後、全国に普及した。

昭和30年代後半までは、農村では多くの農家が味噌を家庭で自作し、昭和40年代の高度成長期とともに自家製味噌は減っていた[14]。とはいえ、仕込み味噌とよばれる味噌を買い、発酵と熟成は家庭で行うということがその後20年は続いた[14]

1970年代(昭和40年代)までは食料品店(酒屋三河屋)などで醤油や味噌が樽から量り売りされていたが、流通の変化などで量り売りは姿を消し、袋やプラスチック容器などのパッケージに入ったものに代わっている。従来は袋詰めの際、添加物としてソルビン酸カリウムが使用されたが、現在は酒精エチルアルコール)を2~3%添加する。これにより、耐塩性酵母を殺菌し、発酵で出る二酸化炭素による膨張を防ぐことができる。なお、調整処理されていないものは生味噌と呼ばれ、耐塩性酵母が引き続き活動している。

1979年度(昭和54年度)後期より国家資格である技能検定制度で[15]みそ製造技能士1級、2級試験がはじまった[16]。みそ製造の技能の伝承を確実にしている。1級は7年以上の実務経験、または2級合格後2年以上の実務経験、2級は実務経験2年以上。科目は学科試験は、みそ製造法、微生物および酵素、化学一般、電気、関係法規、安全衛生で、実技試験がある。

現代[編集]

今日では北海道音威子府村から沖縄県与那国町まで、日本の全ての地域に製造業者が存在する。それほど高度な技術や多額な資本投下無しに製造できることが推測できる[要出典]。同じ穀醤の中でも特定地域に集中している醤油製造との違いでもある。多くの製造業者があり、他の食品と同じように商品の多機能化と差別化が進んでいる[要出典]。単に素材の違いだけでなく、出汁入りのものやカルシウムなどを添加したものを販売している。「つけてみそかけてみそ」など食卓に置いておくみそも普及している。2000年(平成12年)以降は、みその出荷量は単調減少で、2015年(平成27年)には2000年比(平成12年)2割近い落ち込みである[17]。2000年(平成12年)以降デパートでのみその出荷は4分の1以下になっている[18]

2009年(平成21年)8月みそソムリエ制度ができ[19]、みその普及の基盤ができてきたが消費の減少に歯止めがかかっていない。

現在、「味噌」はMiso味噌汁Miso Soupとして、日本国外の人にも日本のものとして親しまれている[20]

味噌の種類[編集]

味噌はJASでは「みそ」と表記され、主材料によって次のように分類される。

  • みそ

    • 米みそ - 大豆と米を発酵・熟成させたもの。

    • 麦みそ - 大豆と大麦又ははだか麦を発酵・熟成させたもの。

    • 豆みそ - 大豆を発酵・熟成させたもの。

    • 調合みそ - 上記の各みそを混合したもの。または、その他のみそ。

また、その製造法に起因する色の違いによって、赤味噌・白味噌・淡色味噌のようにも分類される。

赤味噌の一つ・江戸甘味噌(左)と淡色系の信州味噌(右)

赤味噌と白味噌[編集]

大豆や麹のたんぱく質と糖分によるメイラード反応により味噌は着色する。強く蒸した大豆を多く使い、長期間、高温で熟成させると色が濃くなり赤味噌になる。一方、茹でて糖分やタンパク質を流し出した大豆を、精白した米や着色の進まない系統の麹を多くあわせ、短期間熟成させると白味噌になる。白味噌は熟成期間が短いので色が白く材料の麦などの粒子が残るものもある。熟成期間の長い赤味噌は保存のために塩分濃度が高い傾向にあるが、高温で超短期間に熟成を終える赤味噌である江戸甘味噌は塩分濃度が低く甘い[21]。この中間として信州味噌を代表とする淡色味噌があり、全国的に普及している。

一般に赤味噌は塩分濃度が高く塩辛く、熟成期間が長いのでコクがある。白味噌は塩分濃度が低く麹の糖分により甘い。赤味噌は、東北地域(米と豆)・中京地域(豆)を中心に作られている。豆は糖分が少なくアミノ酸の材料である蛋白質が多く含まれているので、豆からは主に赤味噌が造られている。中京地域の一部では、黒い八丁味噌も含め赤味噌と呼び、その味噌汁を赤だしとよぶ。

米味噌・豆味噌・麦味噌の特徴と地域[編集]

味噌の種類の一つ・八丁味噌

全国的に見て、一般的な味噌は米味噌であり、豆味噌(赤)は、中京地域のみで造られている。米味噌の色は、黄色や黄色を帯びた白色、赤色など多様。米味噌は淡色の場合、一般に煮大豆を用いるが、赤みのかなり濃い米味噌は蒸し大豆を用いる。また、米麹が多く使用される味噌ほど熟成期間が短く済む傾向もある。米の白味噌では信州味噌西京味噌が代表的で、米の赤味噌では津軽味噌仙台味噌などが代表的である。西京味噌は甘みが強く、仙台味噌は辛みが強い。津軽味噌はが独特のうま味があり、信州味噌はあっさりとした口当たりを特徴とするなど様々な特徴がある。米味噌の多く消費される地域は、関東甲信越東北地方と北海道(東日本全域)、北陸地方近畿地方である。なお、日本の都道府県の中で1世帯あたり味噌消費量の第1位は長野県であり、またその生産量においても長野県が群を抜いており、おやきなど地域での名産品もある。

麦味噌は生産量の11%ほどを占め、九州中国地方西部、四国西部では主に麦の白味噌が造られている。北関東では、大麦を使った赤味噌も造られている[22]

豆の赤味噌は蒸し大豆(或は煮大豆)と豆麹を用い、米の赤味噌よりも熟成期間が長いので、その色は米の赤味噌よりもさらに赤みが強く黒味を帯びた濃い赤茶色である。米味噌や麦味噌に比べて甘味が少なく、渋味がありうまみが強いのが、大きな特徴である。豆味噌を主として消費するのは中京圏の愛知県全域、岐阜県美濃地方の中南部・西部、三重県北勢・中勢・南勢と静岡県西部に限られる。豆味噌では、八丁味噌が代表的である。


原料:

豆麥

烹调建曦:

計量單位:500g

商品價格:500元

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